第七巻 日の出の巻 第二十帖 #3 (R7.3.18)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、前回の投稿に続き、日月神示 第七巻 日の出の巻 第二十帖を (#3) として、残りの三、四、五ッ目の段落を解釈して行きたいと思いますので、早速はじめましょう。

 「十年先は、五六七 (みろく) の世ざぞ」と書き出されています。岡本天明達は、この一言を神からの預言 (クドイですが、予言ではなく、預言です) として、非常に重要視していました。神示発祥の昭和十九年から十年後にミロクの世が来ると信じていたのです。このことは、岡本天明が発行した会報誌「預言と霊界」に詳しく書かれています。そこからも判るように、岡本天明達は、日月神示の神仕組がたったの十年で成就するものという誤認識があったことになります。ミロクの世に至るには、一二三、三四五、五六七と各々三ッの神仕組が順次成就しなければならないのです。ですので、十年先の起点となるのは、五六七の始まる時 (文章に書かれたままの意味) と理解するのが正しいと投稿者:加藤は思います。本巻の第二帖に「一二三 (ひふみ) 、三四五 (みよいづ) 、五六七 (みろく) ぞ、五の歳は子の歳ざぞよ。取違ひせん様にせよ」と書かれていましたので、起点は子の年 (近々では西暦 2020 年) となりますので、ミロクの世に至る大峠は現在が真最中とみることが出来ます。そしてミロクの世が成就するのは、西暦 2030 年と考えられます。三ッ目の段落の最後が「大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ」ですが、最後までの途中の文章は、身魂磨き、改心、大掃除の重要性が書かれた文章となり、当ブログをご愛顧くださる皆さまには、説明の必要は無いと思いますので、割愛します。最後の文章は、本帖の冒頭にあった「今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ」に対応している文章だと投稿者:加藤は思います。大掃除をするために、棚のものを下に置いた (世に落ちておいでなされた) と読める文章だと投稿者:加藤は思います。

 四ッ目の段落は「この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまこと神の子ざぞ」と書き出され、「末法の世とは地の上に大将の器 (うつわ) 無くなりてゐることざぞ」の最後まで、神の子の性来 (しようらい) に付いて書かれた段落になります。しかし、日月神示の基本十二巻を読んだだけでは、ここの段落の理解は進まないと投稿者:加藤は思います。日月神示の十四巻 (風の巻) 以降の巻を読み進めると、この段落の意味も段々と見えて来ると思いますので、現時点では「フンフン」と読んで置いて下さい。

 五ッ目の段落は「オロシヤの悪神 (あく) と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ」と書き出されています。本帖の投稿を始めてした時は、この段落を題材にロシア・ウクライナ戦争の話題にふれた時事的な内容の投稿でしたが、当然ですが今回は日月神示の解釈として、本帖の最後の段落を解釈して行きます。神示には「悪の三大将」という言葉が出て来ます。この三大将は「大蛇 (おろち) 、悪狐 (あくこ) 、邪鬼 (じゃき) 」のことを指しています。そしてここで出て来る悪神の親とは、大蛇 (八岐大蛇 (やまたのおろち) のことだと投稿者:加藤は理解しています。「泥海の頃から生きている」とは、この地上界に国々が出現する前 (イザナギ・イザナミ両神による「国生み」の初期段階) から生きていると解釈できます。ということは、世の元の大神様の意志によって生み出された悪神だとも理解できます。「悪を演じる神」悪を抱き参いらせるためには、悪は必要なのだと投稿者:加藤は思います。そして、その悪は、そんじょそこらの小悪魔では駄目なのです。神々の中でも超高級神、悪の中の悪でなければならないのだと思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。