第七巻 日の出の巻 第二十帖 #2 (R7.3.17)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第七巻 日の出の巻 第二十帖となるのですが、本帖は過去の投稿 (R5.3.7) で投稿済となりますので、本帖の日月神示の本文は、かなりの長文でもあり、解釈も長くなると思いますので、過去の投稿でお読み下さい。また、本来ならば今回の投稿は、次帖の二十一帖に飛んでもよかったのですが、過去の投稿は、ロシアとウクライナの戦争に対する時事的な内容の投稿だったことと、本帖の重要性を考えて #2 と #3 として二回に分けて、解釈の投稿をさせてもらいます。先ず説明をさせてもらうと、本帖は五ッの段落に分かれていると思いますので、一ッ々々見て行きたいと思います。

 「今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ」と書き出されています。この「世に落ちておいでなされた神々様」とは、悪神に追放された正神系の神々様と思います。即ち国祖様 (国常立大神) を筆頭に、国常立大神に従う「十柱の神々様」であり、スサナルや大国主命をはじめ、「出雲系の神々様」も該当すると思います。神示は「臣民も其の通りざぞ」と続きますので、神の御用に携わる「因縁の身魂」のことを指し、この因縁の身魂も、正神同様に世に落ちていたという意味に取れます。「此れからは神に逆らふものは一つも埒あかんぞ、やりてみよれ九分九厘でぐれんざぞ」とは、本巻の十六帖に「此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけて置くぞ、容赦 (ようしや) は無いのざぞ」と書かれていた文章の強調 (繰り返し) と受け止められます。「何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様 (さま) は何事ぞ」とは、投稿者:加藤が当ブログでよく書いている、初代の教祖が他界した宗教団体は、何の意味も無い団体となるということと同義だと投稿者:加藤は思います。此処までで、一ッ目の段落は終了ですが、中間の解釈は飛ばしました。当ブログをご愛顧くださる皆さまには、難しい内容ではないと投稿者:加藤は思います。

 二ッ目の段落の書き出し「此の方は力 (ちから) あり過ぎて失敗 (しくじ) った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本 (みせしめ) ぞ」という驚きの内容から書き出されています。太古の地球を修理固成 (つくりかため) られ、この世を構 (かま) ってきた国祖様が、自ら「我 (が) で失敗した」と信じられない発言をしているのです。「何んな力あったとて我出すまいぞ」「執念 (くど) い様なれど我出すなよ」「慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ」と書かれていて、神の失敗から学べと伝えると共に、我を自分で操れると勘違いしていることが、既に我に操られていることに気付けと伝えていると投稿者:加藤は思います。「今の役員、神の道広めると申して我 (われ) を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ」と書かれています。今の役員とは「因縁の身魂」のことで、この神示が降ろされた時代を考えるならば、岡本天明達のことを指していて、天明達に「神の道」ではなく「我の道」を広めている、無自覚の慢心 (取違い) を諭している文章で、「身魂磨き」を促していると投稿者:加藤は思います。「吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ」二ッ目の段落の最後の文章ですが、言葉としては簡単に理解出来る言葉です。しかしこの内容を実行しようと思うと、かなり難しい事だと投稿者:加藤は思います。余談になりますが、2025年問題として、インターネット上では「何処々々へ逃げれば死なずにすむ」とかヨタ話の情報で溢れ返っています。何と我れ善し体主霊従な情報なのでしょうか?そしてその情報に群がる人々もまた我れ善し体主霊従な人間であることに気付いているのでしょうか?何故「集団意識」で大難を小難にしようと呼び掛ける情報は出て来ないのでしょうか?投稿者:加藤は悲しくなります。

 今回の解釈は、此処までとなります。三、四、五ッ目の段落の解釈は、次回の投稿 (#3) で行います。(#2) を最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。