第七巻 日の出の巻 第十九帖 (R7.3.16)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第七巻 日の出の巻 第十九帖です、お読み下さい。
第七巻 日の出の巻
第十九帖 (二三二)
海には神の石鎮め祀り呉れよ、山には神の石立てて樹植えて呉れよ、石は神の印つけて祀る処に置いてあるぞ、祀り結構ぞ、富士奥山には十柱の石あるぞ、十柱祀りて呉れよ、祀る処に行けば分る様にしてあるぞ。十二月二十二日朝、ひつ九のか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 188頁 より)
価格:8800円 |
本帖は、前回投稿の日月神示 第七巻 日の出の巻 第十八帖の続きとして読む必要がある帖だと投稿者:加藤は思いますし、続きとして読まなければ意味が通じないとも思いますので、御手数ですが、もう一度前回の投稿 (日月神示の本文) に目を通して下さい。そして、本帖は短い文章構成となっていますが、現代に生きる我々には、非常に重要な事が隠された文章だと投稿者;加藤は思います。
「海には神の石鎮め祀り呉れよ」は、うづ海の御用に、「山には神の石立てて樹植えて呉れよ」は、甲斐の御用 (富士の御用) に、それぞれ対応していると思います。日月神示の祀りは「龍宮」とも縁が深く「海には神の石鎮め祀り呉れよ」の、海中に鎮め祀る方法は、「岡本天明伝」にも書かれている、岡本天明の有力な同志であった矢野シンの「龍宮の神業」を踏襲したものだということです。
「石は神の印つけて祀る処に置いてあるぞ」及び「祀る処に行けば分る様にしてあるぞ」の部分は、甲斐の御用の現場 (祀る場所) へ行けば、目的の「石」に何らかの目印がしてあるという意味と読み取って問題ないと思いますが、投稿者:加藤はここの部分に現代の我々にとって、非常い重要な教えが隠れていると考えます。この文章から解る「神が宿る依代 (よりしろ) 」が「石」だということに注目してもらいたい。古く縄文時代に遡れば、古神道 (こしんとう) では、「磐座 (いわくら) 」に神が降りる (宿る) とされてきました、縄文時代から続く八百万の神々という信仰で考えるならば、富士山自体が神が宿る山だという考え方と同じです。そしてこの文章で、日月神示と古神道の共通性が見えてきます。明治政府により、古神道は国家神道とされ、政治利用されました。後に GHQ の政策により、国家神道は解体され、現在の神社神道へと変わります。この GHQ の政策も政治利用 (だけではないのですが…) 以外の何ものでもないと投稿者:加藤は考えます。クドイようですが、現在の神社神道は、本来の神道ではないということです。これは、誰が悪いとか、誰が良いとかの話ではなく、我々自身で気付かなければならないことだと投稿者:加藤は思います。日月神示 第二巻 下 (四百) つ巻 第十五帖に「忘れてはならんぞ、この神には鳥居と注連 (しめ) は要らんぞ」と書かれていることからも解るように、現在の神社神道は「神からすれば正統な神道ではない」ということが解ります。
* 神社の鳥居や注連縄とは神聖な場所に結界を設けるための物とされていますが、その神社の中に神を封印する物という考え方もあるようです。日月神示の考えは、後者の方だと投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。