第七巻 日の出の巻 第十三帖 (R7.3.4)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第七巻 日の出の巻 第十三帖です、お読み下さい。
第七巻 日の出の巻
第十三帖 (二二六)
此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味 (せうまつ) の信仰であるぞ、神に真直 (ますぐ) に向ふのざぞ。日向 (ひむか) と申してあろがな。真上 (まうへ) に真すぐに神を戴いて呉れよ、斜に神戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真すぐに、神は真上に戴くのが神国のまことの御道であるぞ。法便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度は何うしても失敗 (しくじる) こと出来んのざぞ。神の経綸 (しくみ) には狂ひ無いなれど、臣民愈々苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労なら幾らでも苦労甲斐あるなれど泥海のたうちは臣民には堪 (こば) られんから早う掃除して神の申す事真すぐに肚に入れて呉れよ。斜や横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、己むを得ぬ事の様に思ふてゐるがそれはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。此の道理会得るであろがな、神の真道 (まみち) は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗 (しくじり) 無いのざぞ、それで洗濯せよ洗濯せよと申してゐるのぞ、神の真道会得 (まみちわか) りたか。天にあるもの地にも必ずあるのざぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様 (おひさま) あるのざぞ、天にお月様ある様に地にもお月様あるのざぞ。天にお星様ある様に地にもお星様あるのざぞ。天からい吹 (ぶ) けば地からもい吹くのざぞ、天に悪神あれば地にも悪神あるのざぞ。足元気つけと申してあろがな。今の臣民上許り見て頭ばかりに登ってゐるから分らなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地拝 (おろが) めと、地にまつろへと申してあろが、地の神様忘れてゐるぞ。下と申しても位の低い神様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇太神様、天照大神、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示克く読んで下されよ、国土の事、国土のまことの神を無いものにしてゐるから世が治まらんのざぞ。神々祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝へと申してあろがな、吾れ善はちょんぞ。十二月十四日、ひつくのかみ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 182頁ー184頁 より)
価格:8800円 |
本帖の前半部分に関しては、読み込む前に「方便 (法便) の信仰」と「正味の信仰」を整理して置かなければ、頭が混乱する文章だと思うのは投稿者:加藤だけでは無いと思います。
§ 「方便 (法便) の信仰」
◎ 斜めに神戴いても光は戴ける、横からでも光は戴ける
◎ 斜めや横から戴くと、光だけ影がさす
◎ 影させば闇となる
◎ 理屈は悪
§ 「正味の信仰」
◎ 神に真っ直ぐに向かう、神向 (ひむか)
◎ 真上に真っ直ぐに神を戴く
◎ 影はあるが、影ではない影
◎ 悪ではない悪
と、以上のように整理して置くと、本帖のクドイ文章も理解しやすいと投稿者:加藤は感じます。注釈を入れるならば、人間が真上から光を受けると、足の裏にだけ影が出来るので、影はあるが影が無い影となるという、禅問答のような話なのですが、日月神示に書かれている文章なので、我々に伝えて置かなければならないことなのだと投稿者:加藤は受け止めています。
本帖は長文となりますので、投稿者:加藤の解釈は簡潔にしたいと思います。本帖の後半部分は「天地合わせ鏡」のことが書かれた文章です。雛形論と同じ考え方でよいと思いますが、天界で起こることは、幽界でも現界 (地) でも起こるし、天界に存在する物は、幽界にも現界 (地) にも存在するということです。本帖は言い回しがクドイく、解り難いですが、日本語としては、さほど難しいことは書かれていないと投稿者:加藤は思いますので、肚に落ちるまで、何度か読んでみて下さい。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。