第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第二十四帖 (R7.1.15)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第二十四帖です、お読み下さい。
第六巻 日月 (ひつ九) の巻
第二十四帖 (一九七)
ココニイザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコトイザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ。
コトの初め気付けて呉れよ。夜明けたら生命 (いのち) 神に頂いたと申してあろがな。太陽 (ひ) あるうちはことごとに太陽の御用せよ。月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。それがまことの臣民ぞ。生活心配するでないぞ。ことわけて申せば今の臣民すぐは出来ぬであろが。初めは六分国のため、四分自分の為、次は七分国のため、三分自分の為、次は八分国の為二分自分のため、と云ふ様にして呉れよ。これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねばならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ。十一月二十日、ひつ九⦿。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 157頁 より)
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ここに、伊邪那岐の命、伊邪那美の命は、沼矛 (ぬほこ) 、沼陰 (ぬほと) 、組み組みて、国産みせなと詔 (のり) たまいき、伊邪那岐の命 伊邪那美の命、息合したまいて、アウ、あうと宣 (の) らせたまいて、国、産みたまいき。
本帖の神話部分ですが、古事記とは決定的に異なる「国生み」となります。「古事記」と「日月神示」のどちらが真実なのかは論じる必要もないと投稿者:加藤は思います。沼矛=男性原理だけで「国生み」を行った古事記と、沼矛=男性原理と沼陰=女性原理とが組み組みて、息合わせて融合した状態で「国生み」を行った日月神示、考えるまでもないことだと投稿者:加藤は思います。
「コトの初め気付けて呉れよ」の「コトの初め」とは、本帖に記されている神話の部分です。沼矛、沼陰を組み組みて国々を生んだことを指しています、古事記に記述されていない最重要部分である「コトの初め」に「気付けて呉れよ」と読めるのだと投稿者:加藤は考えます。
「夜明けたら生命 (いのち) 神に頂いたと申してあろがな。太陽 (ひ) あるうちはことごとに太陽の御用せよ。月あるうちはことごとに月の神の御用せよ。それがまことの臣民ぞ」ですが、ザックリと言ってしまえば、臣民に対する生き方の諭しになります。本帖の後半部分は、日月神示を今後読み進めるにあたり、非常に重要な部分となりますので、少々ですが説明しておきます。神によって生かされていることには感謝をしなければならないですけども、この生かされているというのは「他力」の部分です。他力の部分ですが、神から生かさせてもらっているので、感謝をしつつ精一杯の「自力」を生きなければならないのだと投稿者:加藤は思います。それこそが自由意志による「御用」なのだと投稿者:加藤は考えています。「太陽 (日) 」の御用「月」の御用ですが、御霊磨きの進み度合いで「御用」は変わって来ると思いますし、日と月の関係性なども、日月神示を読み進めることで、理解が進むと投稿者:加藤は思います。しかし本帖では具体的な日と月の関係性も暗示されていませんので、今回の投稿では投稿者:加藤も、これ以上の深読みは避けておきます。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。