第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第十五帖 (R6.12.31)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第十五帖です、お読み下さい。
第六巻 日月 (ひつ九) の巻
第十五帖 (一八八)
目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御 (み) 心のままに弥 (いや) 栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就て教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となりきれよ。何もかも捨てきらねばならんぞ。天地皆神のものぞ、天地皆己れのものぞ。取違ひ致して呉れるなよ。幾ら戦してゐても天国ぞ、天国とは神国ぞ。神国の民となれば戦も有難いぞ。いきの生命いつも光り輝いてゐるぞ。神にまつろてくれと申してあろが。あめつち皆にまつろて呉れと申してあろがな。ここの道理よく判りたであろが。何も云ふ事ないぞ。神称へる辞 (コト) が光透 (コト) ぞ。あめつち称へる言 (コト) が光透 (コト) ぞ。草木の心になれと申してあろがな。神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ。十一月の一日、ひつ九か三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 151頁ー152頁 より)
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本帖の鍵は「身魂磨きの心構え」だと投稿者:加藤は思います。書き出しの「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御 (み) 心のままに弥 (いや) 栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就て教へるぞ」と書かれていますので、身魂磨きの日々における向き合い方が書かれた帖だと判ります。朝に夜に、その日一日の務めが出来る事に感謝するところから始まると、まずは書かれています。日本精神に「礼に始まり、礼に終わる」という言葉があります。これは相手に敬意を表しし、相手に対して尊重の心を持つという意味です。これと同じく、神に対して、朝の始まりと夜の終わりに、その日一日の感謝を表す事から「身魂磨き」は始まると投稿者:加藤は強く思います。余談ですが、本日は令和六年の大晦日となります。明日以降、初詣に行った時に「神宮大麻 (天照皇大神宮の御札) を手に入れて、自宅に祀るのはどうでしょうか?神棚を祀る必要はないと思いますが、家に御札が在る事で、朝に夜に、神に感謝の態度を示せると思います。神棚や御札が無くとも、いつも感謝しているという人は、必要ないかと思いますが、何かしら形があると、感謝の行動がしやすいと思います。
「明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。心配りはせなならんぞ」と書かれています。チョット解りづらいですね。「心は使わないで、心を配れ」とは、計画はよく練って作れ=心を配れで、結果を気にする (心配する=取り越し苦労をする) なという意味だと投稿者:加藤は考えます。
「神称へる辞 (コト) が光透 (コト) ぞ。あめつち称へる言 (コト) が光透 (コト) ぞ」何ですか?と思うような文章です。投稿者:加藤は日月神示の神様は御茶目だなぁ〜と思う文章でもあります。コトが字を変えて三度も出て来ますが、基本的に全てマコトと捉えてよいと投稿者:加藤は思います。「神風もあるぞ。地獄の風もあるぞ。迷ふでないぞ、神の申すコトはコトであるぞ。コトに生きてくれよ。コトにまつろへよ」です。
「草木の心になれ」の解釈ですが、草木はその場を動くことが出来ません。生死の全てを「自然=神」に委ねています。我々人間も、自分で考えているように思ってますが、生まれる時も、死ぬ時も、自分の考えなどありません。今世界の至る所で「戦争」が行われています。戦争が始まる明日など、誰も考えたくもないでしょうが、「起こる事は、起こるようにして、起こる」のです。誰にも止められません。
令和六年の最後の投稿となりますが、少々嫌な (例が悪い) 内容の終わり方で申し訳ありません。一日も早く戦争や紛争が終わる事を願います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。