第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第十三帖 (R6.12.29)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第十三帖です、お読み下さい。

第六巻 日月 (ひつ九) の巻

第十三帖 (一八六)

 人間心で急ぐでないぞ。我が出てくると失策 (しくじ) るから我とわからん我あるから、今度は失策ること出来んから、ここと云ふ時には神が力 (ちから) つけるから急ぐでないぞ。身魂磨き第一ぞ。蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ。今に分りて来るから慌てるでないぞ。今迄の神示よく読んでくれたらわかるのざぞ。それで腹で読め読めとくどう申してゐるのざぞ。食物 (くいもの) 気つけよ。十月二十八日、ひつ九のかみ。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 150頁 より)

ひふみ神示〔新版〕 (Ten books) [ 岡本天明 ]

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感想(12件)

 本帖の鍵となる言葉は「我」です。投稿者:加藤の記憶が正しければ、過去の投稿で「心」に付いて書いたと記憶しています。内容的には「人間の心とは、厄介なもの」という話だったと記憶しています。本帖の書き出し「人間心で急ぐでないぞ。我が出てくると失策 (しくじ) るから我とわからん我あるから」ですが、人間の心には大なり小なり「我れ善し」の心が見え隠れします。ですので「人間の心」で急ぐと、「我」が出て来て失策り、その失策を補うために、また「我れ善し」の政策となり、悪循環だという意味だと投稿者:加藤は考えます。「我とわからん我あるから」と書かれています。これは、「自我」と「真我」の違いで、「外側の我」と「真中の我」と言いかえても良いと思います。書き出しの文章では「自我」で行動すると失策するぞということだと思います。自我による行動の前に、真我 (真中の我) との擦り合わせが必要なのだと投稿者:加藤は思います。

 「蔭の御用と表の御用とあるなれど何れも結構な御用ざぞ。身魂相当が一番よいのざぞ」の部分ですが、読んだままに受け取ってよい文章だと思いますけど、少々説明すると、身魂磨きが進んだ臣民の、身魂磨きの度合によって、蔭の御用を担当するか、表の御用を担当するかを、神が決めますよっていう意味です。蔭と表と表現されていますが、岡本天明は神示書かす御役で、「蔭の御用」だと示されていますので、蔭という、表現が嫌な言葉ですが、蔭も大事な御用で、結構な御用だと解ります。

 「食物 (くいもの) 気つけよ」と締めくくられていますが、これは岡本天明達に宛てた言葉だと解釈して良いと投稿者:加藤は考えます。意味としては、この帖が降ろされた時代背景的に、日本国内は戦時中で食料は配給だったと思われますので、かなりの食糧難な時代だったと考えられ、賞味期限 (消費期限) の切れた、既に腐りはじめたようなものまで食さなければならない時代だったと思われますので、令和六年十二月二十九日現在 (あくまで、今現在) では、あまり気に止める必要のない言葉だと投稿者:加藤は思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。